小美濃清明講師の略歴は上部の「プロフィール」をクリックしてください。
幕末史研究会
事務所:〒180-0006 武蔵野市中町2-21-16
FAX・O422-51-4727/電話・090-6115-8068(小美濃)
Eメール:spgh4349@adagio.ocn.ne.jp
プログアドレス:http://blogs.yahoo.co.jp/bakumatsushiken
幕末史研究会は、東京都武蔵野市を中心に1994年から活動を続けている歴史研究グループです。
「坂本龍馬八十八話」
小美濃 清明
第72話 品川龍馬会
嘉永六年(一八五三)六月、ペリー艦隊は浦賀に来航した。六月三日から十二日まで、この十日間で日本は大きく変わっていった。
九日、久里浜で国書を日本側に渡すと、ペリー艦隊は十日に退去すると日本側は考えていた。
ところが、十日、逆に江戸湾深く進入した。ペリー提督は自ら江戸の町を見ようと、サスケハナという旗艦を底の浅いミシシッピに変更して乗り込んだ。
羽田村沖、十二丁(約一三〇〇メートル)まで近づいて品川の町まで目撃している。そして水深を測量して引き返している。
二度目の来航、翌年一月にはもっと深く進入している。マストの先から江戸を見たと報告しているので品川沖から三田、芝辺りまでを見たと思われる。
ペリー提督は日本側が交渉に応じないのにしびれを切らし、「脅迫を実行する」として軍艦を江戸城に近づけたのである。
ワシントン大統領の誕生日(洋暦二月二十二日、日本暦一月二十五日)に祝砲を一二六発、発射した。空砲だがすごい轟音だった。またボートにも大砲を積み込み、発射させた。浅瀬でも大砲を江戸城に近づけることができることを日本側に見せつけた。これで日本側も交渉に応じると決定した。
こうしたペリー艦隊が動き回った江戸湾に、土佐藩の浜川砲台が造られた。二度目の来航の時である。
品川下屋敷(品川区東大井三丁目)に一万六千坪という広大な屋敷を土佐藩は持っていた。
東京ドームの一・二倍の広さである。
そしてもう一つ鮫洲抱屋敷(かかえやしき)を土佐藩は所有していた。
この抱屋敷は江戸湾に面した八百六十九坪の小さい屋敷だったが、この中に砲台を建設した。
ここに坂本龍馬がいた。佐久間象山塾で大砲の撃ちかたを習った若者たちがこの浜川砲台に配属されている。
指揮官は第顎話で登場している寺田左右馬という人物である。大砲八門を配備した浜川砲台はわずか言の突貢工事で造られた。浜川砲台と品川下屋敷を結ぶ連絡道路が立会川商店街となっている。
龍馬は一兵士として大砲を操作している。数え歳二十であった。
京浜急行立会川駅の改札口を出て右に行くとすぐに品川下屋敷跡である。左に行けば鮫洲抱屋敷跡である。旧東海道に面したこの屋敷は浜川橋(涙橋)のたもとにある。